胡瓜の真夜中通信

胡瓜と真夜中をこよなく愛するアラサー女史が、日々の色々をまるで闇の微かな煌めきのように、名画の一コマのように切り取り過大解釈して綴ります。どうせ生きるならドラマがなきゃね。更新はたぶん真夜中。たぶん。

思うこと

この一週間、私の周りではとても奇跡のようなことがたくさん起こって、それは起こるべくして起こったけれど、
人と出会うこと、外に出ること、毎日生きていくことって本当に素晴らしいなと感じられる幸せな日々だった。雨が降っていても光に満ちた、暖かい日。

昔々、運命や必然について考え夜も眠れない時があり、夜毎考えて考えても答えは全然出なくて、今もなおそうしたことをうじうじ悩む性格は変わっていない。

今日友達が、神様なんていないと言った。神様がいたら、そんな酷いことはさせないからと。

新幹線の無差別殺傷事件について考える。
私たちはこうして、話し合うことで事件を確かめ、一足遅れて“自分のことかもしれなかった”他人事を認識する。
あの瞬間、彼は何人もの明日を奪ったし、何人もが、ずっと手にしていくはずだったいつもの昨日を失った。
同じようにはこの先過ごせないこと。悲しみを背負う前の自分には、もう二度と戻れないこと。
喪失は埋まらない。埋まらないことに慣れながら日々を過ごしていかなきゃいけないだけ。この現実を突きつけられた人たちを、私はやっぱり、自分のことかもしれなかった他人事として思い巡らすことしか、そしてそれをこうして記すことしか出来ない。

姪と甥を考えた時、この先の未来が魅力的であってほしいと思う。生きていたい、見てみたいと思えるような、そんな明日。そしてそっと、悲しみに寄り添える豊かさ。
楽しいことが、毎日じゃなくてもいい。幸せが、長く続かなくてもいい。
だけど夜の先には朝が来ることを忘れない、そんな社会であってほしい。昨日を思い、明日を描ける、そんな今日であってほしい。