胡瓜の真夜中通信

胡瓜と真夜中をこよなく愛するアラサー女史が、日々の色々をまるで闇の微かな煌めきのように、名画の一コマのように切り取り過大解釈して綴ります。どうせ生きるならドラマがなきゃね。更新はたぶん真夜中。たぶん。

vol.4 思うこと

こんばんは、胡瓜です。


熊本の震災があった日、私はついに真夜中の更新が出来るー!なんて浮かれてて、

12時を過ぎても元気な東京の地下鉄に揺られながらせかせかブログ書いてました。

その日は神宮球場に初めて野球を観に行ってね、ヤクルト対巨人も初めて、神宮も初めて、それなのに点取り合戦みたいな試合はちょー楽しくて、

野球のここ逃しちゃダメでしょポイントが全く分かってなかった初心者の胡瓜は、トイレから戻ってきたらヤクルトが満塁になってて一気に3点入れたり。そんなどうでもいいこと、“胡瓜がトイレに行ってる間に”というどーでもいいこと、本来のブログの趣旨に沿って、普通に、ふつーに書きためる、夜を過ごしてました。

ネットが低速度化されてしまって、しかも6時から12時過ぎまで社会と遮断されていた私は、震災のことなんか全然知らなくて、呑気なものだったな。


こういう普通の日々が、被災地にももちろんあったし、それが突然壊されてしまうことって一体なんなんだろうって思う。事故でもなんでもない、誰のせいでもないことって、どこに感情を向ければいいんだろう。怖くて、悲しくて、寂しくて、腹がたっても、誰かのせいじゃなくて、自分がそこにいたから、相手をそこに残してしまったからと、私ならそう自分を責めてしまいそうだな。そうでもして誰かを責めないと、気が紛れないような気がする。でもその矛先が今、被災地のひとたちがそれぞれ自分に向いてるならそんな悲しいことはないでしょう。


大きい余震がまだ続いてる。私が真夜中を好きな理由は、闇があるからで、夜中があれば朝が来るからで、絶望がないと希望は見出せないと、その言葉にとても共感するからなんだけど、

でもこういう場合の真夜中は、闇は、ずっと、灯りに照らされていればいいのに。

勇気を与えるって言葉にはとても違和感があって好きじゃないし、“元気を与える”も、おこがましいと思う。

けど、元気になってほしい。気持ちに寄り添って、忘れないで、鼻歌を歌って、道に咲く花をきれいだと思えるそんな普通の日々を送れる日を待つ。それまで実質的に出来ることを私もしていく、それだけだ。

このブログも、そんな普通の日々に、クスッと笑ってもらえるようにこれからも書き続けます。誰かの暇つぶしに。