胡瓜の真夜中通信

胡瓜と真夜中をこよなく愛するアラサー女史が、日々の色々をまるで闇の微かな煌めきのように、名画の一コマのように切り取り過大解釈して綴ります。どうせ生きるならドラマがなきゃね。更新はたぶん真夜中。たぶん。

トルストイの言うこと

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

レフ・トルストイの名著、
アンナ・カレーニナ』の冒頭文です。


日曜日の夜。
20:00-23:00の3時間の間に、
三人の友人から相談を受けました。
電話ないしはLINE相談。
家庭事情や恋模様、色々です。
偶然に偶然と偶然が重なると、これ必然かな?という気がして、
私は、彼女たちがどうして私に相談をしてきたのか、なぜ今日このタイミングで重なったのかなどを、それぞれのとても真剣な話を聞きながら、そんなことを思ったわけです。
でも理由なんかなくて、たまたまそうであっただけで、たまたま私も相談に乗る時間、話を聞く時間があったまで。
今日ってそういう日なの?って答えにしかたどり着けませんでしたが。

相談とは関係ありませんが、
日々を過ごしていると、私たちはあらゆる場面でさまざまなことに触れます。それは、てっぺんが見えないほど高い場合もあれば、石ころ程度の大きさで、蹴ってしまえば事足りたりもします。

純度100%の幸福なんてない。
幸福が、幸福だけの要素で形成されるなんてありえないと思ってます。
傷があるからこその幸せ。
絶望があるからこそ希望があるのだと、私は思うのです。

誰かの不幸や災難を面白おかしく吹聴する人がいます。
そんな事で比べたって、あなたの不幸は無くならないのに。
嘲笑い、話のネタ、酒のつまみにしていいのは、何もかもが完璧に幸せな人だけです。
そう言う人しか、他人の不幸を笑ったりしてはいけないのです。本当は。
あの子に比べたら私はまだましだわ、なんて、とんだまやかしです。
でも人間はしょっちゅう、こういうくだらない事を真剣に考えて己を癒したりします。
とは言え(かなり独特なイントネーションのとは言えが口癖な友達がいて、とは言えは彼女の常套句なので、使うとなんだか気が引けます。。。彼女はとても素敵な人で、その話はまた今度)私も、
こういう事を無意識のうちにしてしまっていて、いつも冒頭の、海馬の奥底で眠っているトルストイ爺ちゃんの肩をユサユサ振って起こすのです。

なにが言いたいかというと。
明日はわが身だという事を忘れるなよ。
それぞれの尺度の幸せがあって、それぞれの不幸があります。
誰も何も、そこに踏み入る権利はありません。
法でさえも、そう思います。

そして私は、そういう曖昧模糊な境界線を、あっちからもこっちからも見つめて記したいと思います。